インスーリンダ紀行

英日翻訳者(ロンドン大学SOAS翻訳修士課程修了)が、愛する小説の翻訳と格闘しつつ、心動かされた文学について書いています。

『夕暮れに夜明けの歌を』終わらない物語

(作品内容の少々のネタバレを含みます。)

 

このエッセイ集という名の「文学作品」の凄みは、読者がいったい何を読まされているのか、最後の最後まで気づけない点にある。そんなふうに思う。

ロシア文学研究者、翻訳家でいらっしゃる奈倉有里先生の初の随筆集、『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス

2002年、高校を卒業して単身ロシアに留学し、ロシア国立ゴーリキー文学大学を日本人としてはじめて卒業するまでの物語。他言語に出会うこと、その言語に生きる人々を知ること、学ぶことの喜びにあふれた本だ。ただ、2021年10月の出版されたこの本の視点はいまにある。

「人と人を分断するような言葉には注意しなさい」

レフ・トルストイの言葉が引用された章がある。このトルストイの言葉は作品の、著者の想いの根幹を成すものだ。この章は無料で公開されていて、いまのロシア・ウクライナ情勢に向き合う上で非常に大切なことが、第一人者の視点から丁寧に記されているので、ぜひ読んでいただきたい。

https://note.com/eastpress/n/n637ccdbefa6a

(ちなみに奈倉先生は、かの『同志少女よ、敵を撃て』の作者である逢坂冬馬先生の、実のお姉様である(!)。ここでは多くは語らないが、このお姉様にしてこの弟さんあり、とひれ伏す思いをしたことだけは書いておく)

 

奈倉先生の文章には気負いがない。特殊な体験を誇ろうという気がまったくない。飄々とつづられていく身の回りの出来事、あたかも普通のことのように進んでいく青春時代だが、これが想像を絶する"変わった話"である。

学びを愛するご両親のもと、「一家そろって昔の貧乏学生のような家」(p.5)で、趣味でドイツ語やスペイン語に没頭する母親に感化され、誰にもわからないであろう暗号のごときロシア語を学びはじめ、家中の家具家電にマジックペンで単語を書きつけ(母親の真似をして!)、見境なくロシア語をむさぼり、高校を卒業してロシアに行った頃には、検定試験の筆記で満点をとってしまう。会話もすぐに追いつく。ものすさまじい勉強量だが、悲壮な努力をしている様子はない。どう見ても天才なのだけれど、そんなことは関係ないし、読者も一瞬、これがふつうかとだまされる。まったくお構いなしに、「ユリ」は嬉々として、さらなる学びの深海に(深雪に?)飛び込んでいく。

乗るべき飛行機を見失って泣いている著者をなぐさめるバイオリン弾き、マイナス30度という気温、治安の悪い寮、サーカス団の子供たちとの共同生活、何かと「ユリ」に世話を焼くルームメートたち、文学漬けの日々。仙人のような先生、坂の上の小さな図書館……物語的要素がありすぎて、このすべてを体験して生きた著者が、いまこの現実に生きていることがだんだん信じられなくなってくる。

どの一章にも、どこまで掘っても干上がらない豊かさがあるのだけれど、各章の末尾に無駄なまとめはいっさいなく、かといって無駄なクールさもなく、優しくて少々お茶目な著者の、誠実な所感が端的に記され、スパンと終わる。自分を良く見せようという思いとは無縁の著者だ。そんな人が、良く見える以外にどうしようもないエピソードばかり畳み掛けてくるのだから、もう太刀打ちできない。

そんなわけで、こんな珠玉の章が最後まで続き、やがて著者は大学を卒業し、日本に帰国するのであろう、終わり方もこの上なく素晴らしいのだろう、という幸福な予想ができてしまう。残りの章が減っていくのが悲しくて、あえて読むスピードを落としたりもした。次の章に行くのを我慢して余韻を味わう。規格外のエッセイに出会ってしまった、という確固たる結論を胸に、ドキドキしながら先を読み進めていく。

ところがだ。章ごとに一応独立していた話が、途中から一点に向かって傾斜していたことに、だいぶ後になって気づかされる。事件が起きる。その事件のさなかにも、こんなことまであったのか、という瞠目的な思いしか私は抱いていなかった。すべての章があまりに濃密で、かつ著者が嘘を記さないことがもうわかっているので、ある意味感覚が麻痺してしまい、作品そのものの傾斜に気づくことができないのだ。

この傾斜の意味合いは、読まなければ分からない。あまりに切なくて、とても説明などできない。この作品を書いた著者が、いったいどの時間軸にいるのか、ときどきわからなくなる。ただ、そこには真心しかない。実験的にさえ思える巧妙さが、意図と呼んでしかるべきものが、著者の真摯な姿勢の手前で崩れ去ってしまう。いまだに謎のままだ。その謎を解き明かすつもりなど、奈倉先生にはないのだろう。私はそう思っている。

 

私がこの本を手に取ったのは、高橋源一郎先生の「飛ぶ教室」で、奈倉先生の「声」に惹かれたからだった。優しい、揺らぎがない、嘘がない、と思った。話の真偽のレベルではなく、一人の人としてどこまで深掘りしても嘘がない、と感じた。ああ、この方の紡ぐ言葉が大好きだ。だから本が素晴らしいのはわかっていた。ただ、実際手にした作品は予想をはるかに超えていた。

 

先日、セミナーで奈倉先生にお会いした。講義が始まる前から、私は緊張で震えていた。どうしてというほど緊張した。憧れの人に会える緊張なのか。自分が何をするわけでもないのにあそこまで緊張したのは、たぶん人生で初めてだ。

現れた奈倉先生は、写真から予想したイメージと違っていた。まず服装があまりにラフだった。下宿のキッチンからそのまま出てきたようなTシャツ姿、ざっくりまとめた髪。一瞬、怖いのか? と思った。いや、そんなはずはない。そんなはずはないと分かっていても、なんだか怖かった。一流のアーティストが無言で目の前にいるような怖さを感じていた。

でも話し始めた先生は、私が知っていたとおりの先生だった。いや、ずっとずっと素敵で素晴らしかった。力の抜けた、優しい話し方、小さな声。声が小さいと指摘され、「よく言われます」といって笑う先生(でもあんまり気にしていない、直らない笑 なんだか本に登場する先生を思い出す)

時々、話しながらご自分でツボにはまって笑い、笑いながら話を続ける。funnyではない、interestingすぎる物事に笑っているのだ。補足をぼそぼそと喋りながら、だんだんと声が小さくなっていく先生。とても可愛らしい話し方。すごく可愛い方だ。

うけているか、とかそんなことは関係ない(いや、笑いを取るポイントは、しっかり取っていかれるのだけれど。)ただ、講義をされている先生からは、己への信頼と幸福感があふれていた。誰と比べるでもなく、他人をあてにすることもなく、己として幸せなのだ。本の最後に現れた「ユリ」が、そこに実在していた。

 

飾らないとは、嘘がないとは、自分と他者の境界線をなくすことではないかと思う。他者の視点を、生きる世界を、自分のものとして受け入れる。自分を愛することと、他人を愛すること、他者を分け隔てなく愛することが一つになっていく。

奈倉先生は飾らない。飾らないのに己として凛と立っているのは、国と国を、人と人を、けっして言葉で分断せず、逆につないでいくという信念そのものなのだ。だからこんなに優しいのに、何があっても折れない強さがある。ラジオで初めて声を聞いたときに感じたことと同じだった。出会ったことがないのだ、こんな方には。

 

ゴーリキー大学の写真が出てきて、講義中に思わず涙がこぼれかけた。あまりによく知っている懐かしい場所を、初めてこの目で見た。レーヴィチ先生、マルガリータ先生、マーシャ……知っている人たちが次々と画面に登場する。みんな親しい人たちばかりだ。でもそこにあの人の姿はない。分かっていた。こんなところに簡単に現れたりはしないだろう。もしかすると、写真はないのかもしれない。愛おしそうな目で、奈倉先生は話を続ける。

とても当たり前のことを思う。文学とは、言葉だ。言葉は人なのだ。この方が書かれたから、この本はこんなにも魅力的で、出会ったことのない類の、とても手放しようのない輝きを放っているのだと。